2005/04/01
旧水戸城薬医門について;明治時代以降、位置や所有者が二転三転し、水戸城本丸の門とは明確に断定できないと言われている。 ※所有者;安田定則初代県知事が自宅に門を移築。安田氏が知事を辞めた後、豪商の小山田氏が安田邸を買い取る。第2次世界大戦末期には水戸市八幡町の祇園寺に移築。幸いにも、水戸市三の丸周辺への空襲時の戦災を、八幡町の祇園寺で免れ「門」が残る。祇園寺では、その後、「門」を水戸市に寄贈。1981年水戸一燗烽ノ移築され現在に至る。建立時期は安土桃山時代と推定。 |
「薬医門」とは、門の建築様式の呼び名で、扉を支えている本柱とその後ろにある柱で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称形でない。正面から見ると軒が深いため、門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられた。 |
「薬医門」は水戸第一高等学校の敷地内にある(校門を入り左側)↑
「本城橋」を渡り水戸一烽ヨ(写真下)↓ 地図
※本城橋は2002年11月新しい橋に架け替えとなった。手前左に見える石が前の橋
水戸城跡(塁及び濠) 指定年月日 昭和42年11月24日 水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一焉jに館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾の族が栄えたのである。 15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。 それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学付属小、水戸二中、水戸三焉jを築くなど、城郭を拡張して約164年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。 こうして54万余石を領する佐竹義宣はの本城となり城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成とと結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼信が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)に第11氏頼房が藩主(25万石、第三代綱篠の時から35万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。 水戸市教育委員会 |
関連詳細ページリンク
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/shiro/mito/mito11.htm