---- 豆知識 ---
「徳川頼房公」(1603〜1661) |
水戸藩初代藩主徳川頼房公は徳川家康公の第11子として慶長8年(1603)京都伏見城で生まれ、同14年7歳で水戸藩主となる。 頼房公は幼時から才習にすぐれ豪気な気性だったので、父家康公から特に愛され、3代将軍家光公に「水戸の叔父を腰刀と心得て可愛がり、決して鞘走らせぬ様に気をつけよ」と命じ、家光公も頼房公を敬重して何事も相談相手にされたので、頼房公は将軍を補佐しました。 頼房公は神道を学び熱心に研究して奥義を究め、武道にも長じ、射撃にもすぐれていました。 また、家臣団をよくまとめ、水戸城の大修築、下町の造成など城下町の拡張、全領検地、水利事業の実施など、藩の基礎を築いた功績には大きなものがあります。 |
水戸といえば水戸黄門 「黄門様」(1628〜1700) |
1628年(寛永5)、水戸藩初代藩主徳川頼房公の三男として側室お久の方から生まれ、幼名を長丸と言いました。
頼房公は大勢の男の子の中から三男の長丸を世継ぎとして決めたのです。父頼房公の目には狂いはなく、長丸は文武に秀でて情が深く、人の上に立つ力量を備えていました。 世継ぎになってから名を千代松と改め、7歳の時江戸城に登り、当時の将軍家光公に拝謁しました。 1636年(寛永13)9歳の時江戸城で将軍家光公立合いの下、元服(昔の成人式)し、家光公の「光」の一文字を戴いて「光国」と名乗るようになりました。一般に知られる「光圀」という字は、彼が56才の時から用いるようになったものです。 |
「徳川斉昭公」(1800〜1860) |
水戸藩歴代藩主のなかで、第九代徳川斉昭公は、藩政上の事績・学識・人物の点からみて、第2代の徳川光圀公と並び称される存在として広く知られています。 斉昭公は、天保期(1830〜1844)から幕末へ向かう内外きわめて多難な時代に積極的な言動をもって日本の政界の重鎮となりました。 「追い鳥狩」は当時の世へ有為な人材を養成するため、藩校として弘道館を開校し、文武不岐の気風をおこし、日頃の鍛錬に励みその実施訓練を決行したのが始まりです。 第一回は、1840年(天保11)千束原で威風堂々とおこなわれました。それは全国的に注目され、諸藩から視察する者が多く、市中が非常に賑わったとのこと。その規模武者3千、騎馬隊、鉄砲隊・医療班など総軍勢1万2千余を数えた大演習で、正に一大絵巻であり、天下に水戸の先取の精神を呈したのです。 |
徳川幕府 15代将軍 「徳川慶喜公」 |
尊皇攘夷の気運が高まり、さまざまな政治的思惑が交錯するなか、政治の中心が京都に移ります。
慶喜公は将軍後見職、禁裏守衛総督(現在でいえば皇宮警察本部の本部長)を歴任し、30歳で徳川第15代将軍の座に上りつめたのです。 そして政局の前途をしっかりと見据え、自分の信じる政策を実行していきます。英明で天才肌の慶喜公は、その知力のすべてをかたむけ日本を内戦の危機から救い、大政奉還によって日本の歴史上最大の変換期を乗り越えたのです。 |
(文章は、水戸藩時代まつり実行委員会パンフレットより)
水戸観光協会HP URL http://www.mitokoumon.com/